第2章 思い出の始まり




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「お嬢様」

 屋敷を出たところで呼び止められ、恐る恐る振り返る。
 執事の一人が、フリルの付いた白い帽子を両手に畏まっていた。

「お帽子をお忘れです、お嬢様」

「あ、ありがとう」

 苦笑しながらそれを受け取る。
 昔は屋敷を抜け出す度に連れ戻されては怒られていたが、最近では父もとうとう諦めたのか、ほとんど黙認されている。
 いくら叱られたところで、朝の街の散歩だけはやめられない。
 町中の花が、朝日を浴びて一斉に美しく咲き誇る。せっかくこの町に住んでいるのだ。この光景を見ないなんて、勿体なすぎる。
 それに今日は何だか胸騒ぎがするのだ。朝から――いや、夢の中からかもしれない――誰かに呼ばれているような…
 今日は休日。学校も休みだから、友達にもきっと会えるだろう。
 うきうきとしながら屋敷の庭を出ると――

「あら?」

 見知った顔の少女たちが、何やら熱を帯びた様子で騒いでいる。

「あなたたち、どうしたの?」

「あ、フィリ!」

「それがね、街中にすごく格好いい子がいるの!」

 なるほど、彼女たちの興奮の原因はいつも“町にやってきた格好いい人”だ。今度はどんな人が来たのだろう。せっかくだから、少し見てみるのもいいかもしれない。

「こう、すらっと背が高くてね」

「声も格好よくて――高くも低くもないんだけど…落ち着いた声でね、すごく優しそうなの!」

「何かを聞いて回っていたわ。何だったかしら……ほー…?」

「とにかく! フィリも見てみてよ、絶対格好いいんだから!」

 そんなに格好いいのなら――この町で何かを探しているというのなら、声をかけてみるのも悪くない。
 それに…

―――“ほー”…か…

「西の方にいたわよ」

「ありがとう、行ってみるわね」

 少女たちに別れを告げ、早速広場の方へ足を向ける。背後では、まだ少女たちが浮かれた声ではしゃいでいた。
 彼女たちは本当に“格好いい”人に目がない。それが髭を生やした小父様であろうと、剣を持った女の子であろうと、だ。“格好いい”の定義もあいまいで、時に、どちらかといえば可愛い部類に入るであろう少年でも、格好いいと騒ぎ立てる。彼女たちの間では何かしら“格好いい”の決め手があるのかもしれないが、いまいち理解できなかった。
 だが今回は、騒いでいるのは彼女たちだけではなかった。噴水広場に近づくにつれて、いつもと違うざわめきが広がっていく。まだ幼等部であろう少女から、若いご婦人、中には父と同じ世代の女性も、時には男性まで…

―――いったい何だっていうの?

 広場に出る。この空間は、私の最も好きな場所だ。水しぶきが煌めきをつくり、七色の幻想が視界を覆う。朝であろうと、晩であろうと、変わらず美しい。町の皆もきっと気に入ってくれていると思う。ここは町一番の憩いの場なのだ。
 その優美な場に、違和感が一つ。あるはずのない、黒いもの。はなから溶け込むことを拒むような、どこまでも深い漆黒。
 皆の視線が集中している。
 それは一か所に留まらず、うろうろしていた。
 こっちに近づいてくる。
 途中で止まった。

―――何?

 ため息をついたようだった。
 ポケットの中を探っている。
 何かを取りだした。

―――あれは…?

 白、あるいは薄紫の……

「あーーーーーーっ!!!」

 私はあらん限りの声で叫んだ。








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