「ラント…?」
驚き訝しむ父をおき、石を握って居間を出る。階段を駆け登り――古い家なので激しく動くと床が抜けるかもしれないと常日頃用心してきたが、今は足が止まらなかった。 旅支度は済んでいた。いつか、こんなこともあるだろうと、感じていた。とはいえ、荷物と呼べるものは、そんなにない。 俺は、軽い鞄と剣を引っつかみ、慌しく下へ降りた。 「おい、ラント。何処に行くんだ」 「…っ」 出口の取っ手に手がかかる前に軽く引き戻される。腕に弱い痛みが走った。捉まれた腕から、父の微かな怒りが伝わってくる。 父は、その顔ほど怖い人ではない。怒ることはほとんどなく、いたって寡黙な人だ。そして、たまに怒るとますます無口になる。それは時に、森に住む怪物どもより恐ろしい。しかし、怒りで手を上げたことは一度としてなかった。 並んで立つと、俺のほうが背は高い。だが、無言の威圧感が父を大きく見せていた。 「え、えっと…」 普段とは違う雰囲気に若干逃げ腰になりながら、ポケットから手紙を取り出す。無造作に入れられたそれは、早くも多少のしわがよっていた。 「……ホーリィ…グレース?」 「どこだ、それは」 ―――どこ? 「……? どこだろ?」 父の手が離れる。解放された腕は、いくらか赤くなっていた。 父に顎で座るよう指示され、仕方なしに椅子を引き、腰を下ろす。 「ラント」 顔を上げると、父が真剣な顔でまっすぐこちらを見ていた。思わず顔をそむけたくなる。怖い。だが俺は、そんな弱い自分を叱咤して、父の視線をしっかりと受け止めた。 「…お前が強いことは知っている。王都でもかなりのところまで残ったそうだな。だが、それとは違う。聞いたこともなければ、地図にも載っていない。途中道に迷ったら、誰に道を聞く? 運よく答えてくれる者に会ったとして、それが真であると、どうして知れる?」 「道標ならある!」 反射的に叫ぶ。 そう、石の導くままに。 澄んだ空よりも青く、深森の湖よりも蒼い。 「……たとえたどり着いたとして、そこに何がある? そこで何が待っている? そのような危険な場所に行くことを許すことは出来ない」 いっそう険しい父の、低い声がずっしりと圧し掛かる。 「絶対に行ってはならない」 殴られたような感覚に、鼻の奥がつんとした。今にもあふれそうだ。言葉が――涙が。それでも。 「……それでも…行かなくちゃならないんだ…」 食いしばった歯から、震えた声が流れ出る。みっともない。 俺は何を恐れているのだろう。 不安など、何処にもないのに。 だが、頭の中で、俺ではない何かが、せめぎあっている。 一方は、行くなと。もう一方は、早くこの村から立ち去れと…… ―――リュート そしてもう一つの、月夜の水面のような声が、 「呼んでるんだ、俺を」 俺は再び蹴りたった。その容赦ない仕打ちに、古い椅子は倒れそうになるが、かまわず扉へと駆け寄る。今度こそ、つかみ戻される前に。 「大丈夫、見つけたらすぐに戻ってくるから。それじゃ」 「あ、こら、ラント!」 俺は村を飛び出した。 |