第1章 夢の終わり




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―――夢か…

 最近毎日同じ夢を見る。場面は違うけれど、でも、同じ場所。
 初めは、穢れの欠片もない純白の空間に子供の笑い声がこだましているだけだった。
 それが徐々に明瞭になり、最近ようやく白いものの正体と、子供の数が分かるようになった。
 だが、鮮明になればなるほど、それは俺の意識から離れなくなっていった。
 とくに、朝。夢か現か――区別がつかなくて困る。
 俺は、ぼんやりとした意識の中、体を起こし、辺りを見回した。
 陽の差し込む窓、古びた箪笥、子供用の小さな机と椅子、背の低い本棚、そして、寝台。
 律儀なほどに整頓しているが、歩く幅はあまりない。
 そこまで確認して、どうにかホッとする。
 大丈夫、ここは自分の部屋だ。

―――よかった。やっぱりあれは夢だ…

 狭い部屋。
 前面の扉から出て、急な階段を下りれば、正面には父の部屋。隣に居間、そして玄関。
 それだけの小さな家だ。
 昔はそうは思っていなかった。周りの家だって似たようなものだ。
 小さな家の集まり。ここは地図の端っこ、辺境の村。
 村のすぐ横には、森が広がっている。
 森は怪物達の住処だ。
 けれど、森は人々に糧を与えてくれる。近くに村を作ることは少なくない。

 俺は、剣を携え、遠い遠い王都へ行ったことがある。自分の腕を試すために。
 王都の闘技場で武術祭が行われたのは、数ヶ月ほど前のことだ。
 自信はあった。実践に事欠かない森という最も危険で過酷な修行場が、近くにあったからだ。
 だが、そこで知った。
 自分は“大勢”の中の一人だということを。
 意識すればいつも、世界という名の暗闇は、手を伸ばさずとも其処にあった。
 ただ昔は、真っ暗闇の中でも、きっと捜し求めれば太陽の光が見つかるのだと、淡い期待を抱いていた。たとえそれがどれだけ微かなものであれ、見つけ出したいと望んでいた。
 けれど、今はもう、そんな朧げな光さえ、俺には決して手の届かないもののように思えてしまった。

 ふいに軽く欠伸をし、わだかまりを除くように朝の爽やかな空気を求めて、窓を開ける。
 日の光は、寝起きの頭に良く響く。覚醒前の、まどろみの世界が、再来する。
 そこは、見渡す限りの白色。その中に舞う、暖かな色と――楽しげな声音。
 差し伸べられた小さな手。自分を呼ぶ声が、鼓膜に深く響く。
 その声に振り向き、俺は、少し躊躇いながら微笑んで……
 いや――これは夢だ。数年前から、よく見る、夢。
 いつもあんまり覚えていないし、もうほとんど思い出せないけれど。
 目が覚めると涙が出るほど心躍る夢。必ず俺は笑っている。心の底から…
 何故こんな夢を見るのだろう。

―――希望……願望?

 やっと朝日に目が慣れてきた頃、ふと、誰かと目があった。
 青い帽子に青い服、歩きやすそうな靴に古皮の肩掛け鞄――月に数回やってくる配達屋か。

「あのーすみませーん! ちょっとお尋ねしますがー!」

 二階の窓辺にいるこちらを見上げるようにして叫ぶ配達屋の横から、ふくよかな体型の女性が遠ざかっていく。おそらく、隣のおばさんだろう。
 どうやら配達屋は何かを聞いて回っているらしい。彼の声の枯れ具合が、後はこの家と村の最奥の長老の家だけだと告げていた。
 眼下の配達屋は、さらに声を張り上げて言った。

「リュート=アプゾルートっていう人、知りませんかー!?」

 もう何度繰り返した台詞なのだろう。怒鳴った所為か、肩で息をしている。揺れる彼の目には、薄い期待と、夢と現実の狭間にいる少年が映っていた。その少年は大きく伸びをし、片目をこすった。それは、猫を思わせるほど緩やかで滑らかな動作に思えた。
 村のほとんどの人に首を横に振られた配達屋は、それでも諦めなかったようだ。それが彼の仕事であったし、また、確信があったのだろう。
 この手紙の受取人は、この村にいる。
 だから、配達屋は仄かな期待とともに、何とか目を覚まそうとあれこれしている少年を見上げ続けているのだ。
 だが酷なことにも、まだ覚醒しきれていない少年は、数分後にはうつらうつらとしながらも窓の向こうに消えてしまった。
 配達屋の、がっくりと肩を落としているだろう姿を思い浮かべる。そして彼は、慌てて首を振り、気を取り直して最後の家へと足を向けるのだろう。
 が――

「あっ!」

 きっと配達屋は、その声に足を止める。それから、少年が、窓から飛び降りる気かと思うほどに身を乗り出すのを目にするのだ。
 再び、配達屋と目が合う。

「ち、ちょっと待って」

 そこで、まだ寝間着だったことに気づいて、俺は身を引っ込めて大慌てで着替えだした。
 開け放たれた窓から少年の姿が見えなくなるのと同時に、ものすごい勢いで階段を降りる音が、配達屋に伝わることだろう。おそらく配達屋は嬉々として、急ぎ玄関先まで回っている。
 わずかの間で扉が勢いよく開き、中から少年が飛び出してきた――配達屋の瞳に映る自分の姿を確認する。俺は、裸足のまま激しく肩を上下させ、左手先にある扉を支えにしていた。
 そして、

「それ、俺」

 荒い呼吸の間に生まれた言葉を何とか聞き取った配達屋は、にっこりと笑って、差し出された俺の手に確かに手紙を握らせたのだ。








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