Near




――― ハァ ハァ


 森の中。濃い緑の味に咽返りそうになる。


――― ッ ハァ


 喉の奥が痛い。焼けてしまったのだろうか。

 こんなに走ったのは初めてかもしれない。


「うわっ」


 急に飛び出してきた木の根を何とかギリギリでかわす。

 まだ声が出る。よかった。

 しかし1度出てしまった声は、もう止まらない。


「うそだ…」


 少し嗄れた息で少年はつぶやいた。

 いや、叫んでいた。

 洪水のような想いの中で。


「絶対! そんなことない…っ」


 みんなの言葉がよみがえる。


「違う」


 だから少年は抜け出したのだ。


「僕が探す! 絶対見つけ出して、連れて帰る…!」


「…いた! おられたぞー!!」


 少年は不安と恐怖で振り返った。


「こっちだ! 早く、お引止めしろ!」


 目が合った。知らない人だった。そんな人、ごまんといる。

 少年は怒りで再び走り出した。


――― 待ちなさい、リュミウス


 手足の感覚はもうない。剥き出しの白いそこらには、幾重もの細い赤が目立った。


――― 誰か、誰かリュミウスを…!


 どうして。

 どうして僕は走ってるんだろう。

 どうして僕は逃げてるんだろう。

 どうして僕は追いかけられてるんだろう。


「みんな、何もしないくせに…っ」


 僕を捕らえようとする。

 だから僕は飛び出した。

 だから僕は振り切った。

 だから僕が (ルビ ・・) 探すんだ。

 認めない。

 信じない。

 もう、嘘もうわべも、たくさんだ。


――― リュリ


「……抜けた?」


 不自然な風が肺に溶け込む。

 なんて心地いいのだろう。


「きゃっ」


 軽い悲鳴と共に、木々がガサリと鳴いた。


「ど……どうして人間が……」


――― 魔族!?


 人型をしてはいるが、猫のような耳に尻尾まである生き物が目の前にいる。いつの間にか、魔族のテリトリーに入ってしまったのだ。

 まずい。逃げなくては。

 でも。

――― もう足が動かない


 腕も痛い。肺も痛い。心臓も痛い。

 でも。


――― 逃げなきゃ


「あなた、どうやって結界を越えてきたの?」


 距離が近づく。ダメだ。動け足。


――― 動け


 早く。でないと。


――― 食べられる!


「あら? あなた…」


 兄様のように魔法なんて使えない。

 剣の腕もない。

 頭も回らない。

 だから。

 足元の砂がジリジリと音を立てる。

 そうだ、足。もっと動け。

 腰に下げた剣が、カチャカチャと音を立てる。

 紋章が、小刻みに震えていた。

 さっきから、視界が左右に揺れる。


「怪我をしてるの?」


 牙が見えた。


「!?」


 急に魔族が大きくなる。

 いや、違う。

 手が、土に触れた。


「大丈夫!?」


 魔族の手が伸びる。相変わらず、左右に揺れている。

 少し、爪が長い。


――― 兄様!


 目を瞑れば、兄の姿が見えた。

 なんでも出来た兄。

 誰にでも好かれた兄。

 人の上に立つべく生まれてきた兄。


――― いい子にしてるんだよ、リュリ


 待って。行かないで。行っちゃダメだ。

 腕をつかまれた。


「ひっ あ、いや…だ」


 何故だか力が入らない。魔族なら呪文もなしに魔法が使えるのかもしれない。

 魔族がしゃがみこむ。

 もうダメだ。


「くっ 来るな…」


 さっきから視界がぶれて気持ちが悪い。

 どんな魔法なんだろう。

 魔族の、もう片方の手が頬に触れる。


「―――っ」


 視界のぶれが止まった。

 虜になりそうなほど綺麗なエメラルドが2つ。


「魔続だって、手当てくらい出来ます」


 ……………

 て…あて……?

 魔族が、くすっと笑った。


「少し待っててくださいね。包帯を取ってきますから」




◇◆◇◆◇◆





 白く細い腕に、さらに白い布が巻かれていく。

 少年はそれを半ば呆けながら見ていた。

 あまりのことに思考がついていかない。

 静かだ。シュルシュルという布のこすれる音しか聞こえない。

 鳥のさえずりも、虫の音も。

 心地よい風はあれ以来吹いていない。


――― 怖い


 静寂が、堪えられない。


「君は…君以外の……………ものはいないの?」


 魔族は何と呼べばいいのだろう。

 ものは、まずかっただろうか。


「……はい、終わりましたよ」


「あ、ありがと…」


 少女―――そう、よくみると魔族は少女の姿をしていた。

 少女ににっこりと微笑みかけられる。

 少年はあいまいに笑い返した。

 だって、小さな頭から生えた耳は少年の息遣いに合わせて細かに動くし、白い短めのワンピースの裾から覗く細長いふさふさした尻尾は時折左右に振られる。

 これが、人喰い魔族だって?

 これが我が国を2度に渡って滅ぼしかけた、魔族だって?


「この村は…」


 余った布を片付けながら少女が話し出す。


「この村は、少し前に人間に焼かれてしまいました」


「!?」


 悲しそうに微笑む。

 なん…だって……?

 人間に…




――― 魔族の住処を特定しました


――― 結界はどうする


――― それは私が何とかしよう


――― 皇子!?


――― 危険です! 皇子自ら出向くなど


――― しかし誰かがやらねばならない ならば魔力の高い私が一番いいだろう


――― ですが


――― おや? リュリ、どうしたんだい? そんなところで… こっちへおいで


――― っ


――― おやおや 怖がらせてしまったかな …少し休憩しよう


――― はっ


――― ……悲しいものだね 昔は協力をし、契約まで結んだ仲なのに…


――― …………


――― リュリ、どうかお前は手を取り合う道を探しておくれ…




 兄様の暖かい手はいつでも思い出せるのに。

 兄様と我が国が滅ぼした。

 滅ぼして、滅ぼされて。

 その連鎖は止まらない。

 どちらかが、消えゆくまで……


――― 兄様はここまで来たんだ


 では何故この子は、まだここにいるんだろう。


――― ドクン


 音が聞こえそうなほど、何かが強く響いた。


――― ドクン ドクン


 誰かが楽器をたたいているかのように。

 そのリズムはどんどん速くなる。


「っ はぁ はぁ」


 苦しい…

 じゃあ兄様は…

 苦しい!

 兄様はどうして…!




「……………」


 少女は、出会ったとき以上に蒼白になっていく少年を静かに見ていた。

 これが、あの人が言う“天命”ならば、希望は確信に変わるのに。


「……ごめん」


 どうやら少年は落ち着いたようだ。

 相変わらず蒼い顔を、俯かせている。

 これが“天命”ならば、きっとこの世は胸を張って時を進めることだろう。


「それ以来、君はずっと独りで…?」


 少女は満面の笑みで応えた。


「ええ、約束のときまで」


 確信したら、愛おしさが込み上げてきた。

 今すぐにでも抱きしめてしまいたい。

 この、未来へ昇る月を。

 この子が月なら、あの人は海。そして選ばれた魔族は、それらを覆い隠すための朧雲。


――― 私はこれ以上先の天命は見えないんだ だから


 きっと、こんな年端も行かない魔族である必要はなかった。

 それは誰でも良かった。

 ただ、そこにいたから。そばに、倒れていたから。

 きっと、それが“天命”。


――― だから、君に託す


 約束が産まれた瞬間から、大切なものが失われた。

 それは、かけがえのないものだったのに。

 きっと、あの人である必要はなかった。

 誰でも良かった。

 でも、誰かでなければならなかった。

 そして、その想いは大いなる流れに汲み取られ、願いは繋がる。


「約束…か…」


 地面に向かって発せられる声音は、少し聞き取りづらい。


「僕も、約束したんだ、昔…」


 少年の、優しい2つのアメジストに光が当たる。少年がふいに、腰に下げた剣に飾られた紋章を触る。


「僕はこれでも、皇子なんだよ」


 今にも崩れ落ちそうだった。

 その苦しそうな笑顔も、震える声も、振り絞った勇気も。

 それでも流れ落とすわけにはいかない。上に立つ者として。




 少女の反応はなかった。

 絶句しているわけではない。ただ、静かに眺めている。

 ゆっくり聞いている。告白を。懺悔を。


「約束をしたんだ、兄様と」


 僕はその約束を果たす。何があっても。何をしても。

 この身を捧げてでも。


「……果たした時、そばにいてほしい」


 すでにこの身が朽ち果てていても。


「隣で、よくやったねって、褒めてほしい」


 少女の瞳が煌く。

 それは他人に、移る。


「僕なんか、まだまだ兄様に敵わないのに 勝手に皇位継承者にされそうなんだ」


 力も、心も、ねじ伏せられて。


「なのに兄様帰ってこないんだ… 勝った戦から、帰ってこないんだ……!」


 どうしよう。

 みっともない。

 止まらない。

 かなしい つらい さみしい くるしい こわい くやしい…

 くやしい。

 くやしい!

 自分が。

 国が。

 兄様が。

 みんなが。

 しばらく人前で泣いたことなんてないのに。

 頑張って堪えてきたのに。

 止まらない。

 どうしよう。


「……約束」


「え?」


 それまでずっと見守っていた少女が、突如ぽつりと話し出した。


「あなたも知ってる人よ… 約束、今果たすわ」


 それはあまりにも唐突だった。

 僕の知っている人…?

 誰だろう。

 僕を知っている人はたくさんいる。

 けれど僕が知っている人は、そんなにいない。

 誰だろう。


「言葉を」


「……」


 少女の気配が薄くなる。

 まるでいなくなってしまったようだ。

 かわりに誰かの気配が…


『リュリ』


「!?」


 男の声が重なる。

 僕をリュリと呼ぶ、懐かしい (ルビ ・・・・)


『リュリ…何と言う顔をしているんだい?』


 くすりと笑う気配。

 笑うと心に灯が燈る。

 僕の大好きな繊細な手が。


『私を、探していたんだね』


 ああ…

 どうしよう。

 涙が。

 止まらない。


『リュリ、いい子だからよくお聞き』


 心に響く声。

 どこまでも相手を想いやる言葉。

 ああ…どうかこのままずっと…


『リュリ、お前の信じたものを最後まで信じなさい… お前の感じたものを恥じてはいけないよ』


 ずっと僕の名前を呼んでいて…


『リュリ、どうかお前はすべてのものと共に歩み… 優しい時の流れに生きておくれ』


 時の流れなんてこのまま止まってしまえばいいのに。


『そろそろ力も尽きる… 最後に』


 時よ止まれ。


――― 止まってよ、早く


 でないと。

 消えてしまう!


『リュリ… いや、リュミウス=ボーリィブレスの治める世に、栄光と幸福が満ちんことを…』


 やめてよ、どうして。

 どうしてそんなこと言うの。

 いやだよ。

 一緒じゃなきゃ、いやだよ…!


――― 兄様!


 兄様が治める世を、僕は隣で支えていく。手伝っていく。

 それが、定めじゃないの?

 ああ、ダメだよ。

 待って。


「………ま……て」


 お願いだから。


「いかないで、兄様!」


 どうしてそんなに悲しそうな顔をするの。

 やっと見つけたのに。

 ずっと探してて、やっと出逢えたのに。

 笑って、ただいまって言ってよ。

 そうしたら僕は、おかえりって言えるのに。

 そうしたら、みんな認めてくれるのに。

 そうしたら、一緒に帰れるのに…!

 光が満ちる。

 反射的に手を伸ばし、掴もうとした。

 でも手の平には何も残らなくて。


「あ…」


 何も掴めなくて。


「あああああああああああああ!!」


 そこには少女がいた。

 いや。


「君も、消えるの…?」


「……もうとっくに死んでいるのも…」


 また。


「でも、あの人と契約を結んでよかった」


 悲しそうな顔。


「だって、あなたに会えた… 優しさに満ちた未来を見ることが出来た」


 闇が、満ちる。


「! やだよ! 僕はこれから争いのない世界を作っていくんだ! 約束したんだよ!? 人間同士の争いも、人間と魔族の争いだってない世界を…!」

 闇は納まり、結界が薄れていく。


「………もう、誰も……死んでほしくないのに…」


 鳥の歌が聞こえる。神歌のように。

 爽やかな風が吹き抜けていく。少年を独り、置き去りにして…




◇◆◇◆◇◆





 そこには、他所で類を見ない、白い花が咲き乱れていた。

 そこに生きる人々の、魔族たちの、心を表したかのように、咲き誇っていた。

 光降るときも、闇溢れるときも。いつまでも咲き続ける。

 まるで、何かの魔法のように。誰かの、魔法のように。

 青年は、日に1度は必ずその花畑に訪れていた。

 後々、それはあたかも会話をしているようだったと語り継がれるほど、思いを込めて見つめていた。

 青年の頬を一筋の優しさがこぼれた。

 しかし青年は笑っていた。誇らしげに。満足そうに。少し、気恥ずかしそうに。

 白い花が、寄り添うように揺れる。


「…約束、ですから……」


 そして青年は、その場に倒れこんだ。








END




お付き合いいただき、ありがとうございました^^

今までと少し毛色の違ったオリジナルでしたが、少しでも何かを感じていただけたのなら幸いです><///