光なんて一筋も射し込まない深い森で、小さな少女が泣いていた。
それはまるで親とはぐれ心細さに泣き叫ぶ迷子のようだが、頭には深紅の髪と似た色の一対の耳、薄桃のワンピースの裾からは細長いしっぽが見えている。 どちらもすっかり悄気返っていて、少女の悲しみが感じ取れた。 少し離れたところで観察していたシルヴィスは、少女にそっと近づいた。 足元の枯れ葉が、かさかさと音を立てる。 少女の耳が動いた。 シルヴィスは初めてその耳に興味を持った。 ともすれば足が速まるのを抑え、少女に恐怖を与えないよう慎重に進む。 クッションの下で小枝がパキリと鳴った。 少女の耳が再び動き、警戒からしっぽの先が少し持ち上がる。 シルヴィスは立ち止まった。 すでに少女との距離は、わずか二歩ほどである。 木の葉のすれる音がなくなり、少女のしっぽがパタりと再び倒れこんだ。 今度は声を押し殺して忍びなく少女を、さっきより近くで観察する。 少女の耳にはシルヴィスの息遣いが聞こえているのだろう、泣きながらも耳がシルヴィスの呼吸に合わせてかすかに動く。 そして――― 「かわいーっ❤」 「ニャーッ!?」 少女はシルヴィスに捕まった。 ◇◆◇◆◇◆ 「炎よー!」 「あはははは リーシャかわいー❤」 廊下の一角を焦がすほどの炎をヒョイヒョイとよけながら、シルヴィスが今日もリーシャと迷惑極まりない“鬼ごっこ”をしていた。 一応、常時控えている給仕や警護、高価な置物は避けて逃げているらしく、被害は石造りの壁や天井、時々絨毯の端が焦げる程度にとどまっている。 給仕らは、もうすでに慣れている様子だった。皆、無駄だと知っているのだ。 ここホーリィブレス国の第二王子が魔族の子供を拾ってきてから、ほぼ毎日騒ぎが起こっている。 そのことも相俟って誰も止めようとしない。 そして、この艶やかな性格のシルヴィスのいたずらにいつも巻き込まれるのが…… 「うわっ」 またしても運悪く部屋から出てきた長い銀髪の青年を見つけ、シルヴィスはバトンタッチとでもいうように手を掴み、そのまま背後に回りこんだ。 目の前には、ものすごく怒り、しっぽの毛先まで逆立てたリーシャが次の術のために気を高めている。 シルヴィスを背に隠す青年は、背後に一瞥をくれる暇もないまま、瞬時に攻撃魔法を唱える。 力と力がぶつかり合い、服が激しくはためいた。 相殺の余波が去ったところで、青年は背中にぴとりと張り付くシルヴィスを引き剥がし、まだ収まりきらない動機を感じながら叱り飛ばした。 「シィス! 私の力を過信するなと言っただろう! いくら子供とはいえ、魔族に人間の私が敵うはずがないのだから」 耳元で叫ばれたシルヴィスはへらっと笑い、すっかり息を乱しているリーシャに近づく。 「リーシャ」 優しくリーシャの顎をなでる。 「ごめんね… もうリーシャが昼寝してるところをわざと日陰にしたりしないから❤」 全くもって反省の色が見えないのだが、それでも謝ってもらったと認識したリーシャは、気を取り直して、王国一の魔法使いであり、まだ胸を押さえている青年に向き直った。 「あ、クロエさま、こんにちは」 ぺこりと頭を下げる。やっと覚えた挨拶である。 しかしながらクロエは半歩下がった。 「魔族っ子、出来れば挨拶は初めに向かい合ったときにしてくれ」 畏怖により固まりつつある体で、普段どおりの声を何とか発する。 平静を装ってはいるが、生まれたときから一緒にいるシルヴィスにしてみれば、クロエが緊張をしているのは明らかである。お陰で笑いを堪えるのに一苦労だ。 この夜の海のような深い蒼碧の瞳をした長身の青年・クロエは、ホーリィブレス国の第一王子であり、政治の腕は疎か剣の扱いにも秀でていて、魔法に関しては国一、いや、この世一の使い手である。ホーリィブレス国は昔から魔法の国と呼ばれており、王家の者は光の力を持って産まれてくると言われている。クロエも例外なく、歴代トップクラスの力を有していた。 だからこそ、魔族を誰よりも恐れている。 シルヴィスにとって、そんなクソまじめで暖かい兄は誇りでもあり、同時に一番の遊びの対象なのだ。 「そうだ、リーシャ さっき君に預けたものがあっただろう? それ、クロエに渡して」 魔族は強い力に惹かれる。己の中の濃い力がうずくのだそうだ。だから、リーシャはクロエに興味があった。 シルヴィスの言うとおり、ポケットから小さい宝石を取り出す。真っ赤に透き通った宝石で、クロエに似合いそうだ。リーシャはそれを摘まんで差し出した。 「叔父上からだよ、クロエ 髪飾りか外套留めの装飾に使うといいって頂いたんだ クロエは忙しいだろうから、僕が預かったんだよ?」 親切心満々といった口調だが、声を発している口はニヤリと笑っている。それに気づく余裕がないクロエは、蒼い顔でさらに半歩下がる。背が扉に当たった。 リーシャは少し不安そうに手を出し続ける。 叔父上からの贈り物だ。受け取らないわけにはいかない。 しかし、そうするにはリーシャに触れなければならない。 「クロエ?」 シルヴィスが不思議そうに訊ねる。もちろん、顔は笑ったままである。 冷や汗気味のクロエはやはり気づかず、どうしたら触らずに受け取ることができるのか、思考を巡らせ始めた。だが、あまりうまくいっていないようである。 ―――限界、かな? リーシャを連れて帰ったとき父は、王は何も言わなかった。 当然だ。 今この国は実質二人の王子が治めている。 クロエが表を、シルヴィスが裏から手を回し、この国を守ってきた。 だが、リーシャを、魔族を近くで感じたクロエが、にじみ出る力の威圧により失神してしまったときには、ひどく怒られた。 僕だって何も考えていなかったわけではない。 なのに。 何も知らないで、何も知ろうとしないで手を挙げた父が、初めてとても小さい人間に見えた。 だが、すぐに目覚めたクロエはこう言ったのだ。 『ありがとう』 と。 シルヴィスの短い銀髪をなで、蒼碧の海にシルヴィスの金色の月を映しながら。 その一言で充分だった。 ちゃんと胸の内をわかってくれている。 なら僕は、この人の望みのために、自身を何にでも捧げよう。 だから…… ―――また倒れないうちに、ね シルヴィスは身を滑らせ二人の間に割り込んだ。クロエが背後でひっそりと息をつくのを感じながら、リーシャの肩に手を置き、目線が合うように跪く。 「リーシャ…とても残念だけど、どうやらクロエは僕から直接渡してもらいたいみたいだ」 リーシャは、クロエ以上にシルヴィスが大好きである。少々むくれながらも、素直にシルヴィスに宝石を渡した。 シルヴィスはにこっと微笑みリーシャから宝石を受け取って立ち上がった。 そして、振り返って上目遣いでクロエを見つめる。もともと身長差があるので自然と見上げる形になるのだが、さらにシルヴィスはわずかに頬を上気させ困ったようにクロエの視線を捉えた。 「クロエ… 一度はっきり言っておこうと思うんだ…」 「な、なんだ 改まって」 「あの、ごめんクロエ、気持ちはありがたいんだけど… 僕は、その、そういう方面にはあまり興味が……」 「だっ…」 さっと顔を赤らめ視線を外し口に手を当てるシルヴィスの仕草で、彼が何を言いたいのかクロエは咄嗟に理解する。 「誰がだこのバカ!」 慌てて言い返し、宝石をひったくる。 緊張が途切れ、耳まで真っ赤にしたクロエに背を向け、シルヴィスは口元を押さえながらリーシャを連れてその場から去った。その肩は確実に震えている。笑っているのは一目瞭然であった。 またやられた、と思いつつも、クロエの頬も自然と緩んでいた。 部屋の扉を閉め、シルヴィスとは逆の方向に廊下を歩きだす。 すると其処此処から、やっぱり…とか、片思い…とかいうヒソヒソ声が聞こえてくる。 以前から、シルヴィスの声は澄んでいて良く通り、魔法使いとしての素質は抜群だと感心していたのだが、彼の性格上それは困るところである。 本人としては、それも計画の一端なのかもしれない。 とはいえ、 ―――あのバカシィス! クロエは心の中で毒づいた。 ◇◆◇◆◇◆ 「シィスさまぁ~」 リーシャがワンピースの裾をひらひらさせながら長い廊下の奥から駆けてくる。目にはうっすらと涙の後が見て取れた。 「なんだい、リーシャ?」 そんなリーシャをシルヴィスは優しく抱きとめる。 「うぅ… みんながリーシャのこと魔族だっていじめる~」 リーシャはシルヴィスにしがみつき、彼の銀の刺繍が施された柔らかな白い服に顔を埋めた。シルヴィスはどこか悲しそうにふわりと微笑み、リーシャの耳をなでる。 「仕方がないよリーシャ…」 リーシャがふと顔を上げ、二人の視線が絡み合う。そして、シルヴィスは満面の笑みで言った。 「だってリーシャは魔族なんだから❤」 「!!」 リーシャの背景に、ガーンという文字が浮かびあがった。そのままリーシャはふらふらと数歩下がり、その目から大粒の涙を溢れさせた。 「シィスさまの………シィスさまの、バカぁ~!」 がむしゃらに走り去るリーシャの背中に、シルヴィスの馬鹿笑いが突き刺さった。 「うぅ…シィスさまのばかぁ…」 何処からか小さな泣き声が聞こえてくる。考えるまでもなく、この声は魔族っ子のものだ。 またシルヴィスにからかわれたのだろう。魔族と遊ぶなど、わが弟ながら恐ろしいばかりである。 いや、違う。劣っているのは自分の方だ。 シルヴィスにとって魔族など臆するに値しないのである。なぜなら彼は――― そこでクロエははたと思考をとめた。 段々と声が近づいてきている。姿は見えないので、廊下を曲がった先を歩いているのだろう。 逃げるなら今しかない。 不意にそんな思いが頭をよぎる。 駄目だ。 せっかくシルヴィスがわが国のために命がけで捕らえてきたのだ。魔族がいるだけで、どこの国も気後れするだろう。わが国の安定のためにも逃がすわけにはいかない。シルヴィスのように出来るだけ手懐けておかなければ… あれやこれやと考えた末に、クロエは歯を食いしばって、その場にとどまった。一つ目の曲がり角から来るのならば、確実にクロエに気づくだろう。 ―――落ち着け 出来るだけ、自然に。 一度大きく息を吸う。 「あ」 「! げほげほ」 吐き出そうとした息が詰まってしまった。思った以上にリーシャの足は速かったようである。 「クロエさまぁ~」 苦しがるクロエ、かまわずリーシャが抱きつく。 クロエはのどの痛みも忘れ、呼吸を整えることも出来ず、見事に固まった。 「うぅ…シィスさまのばかぁー」 金の刺繍の入った服の上で泣きじゃくるリーシャをよそに、クロエの顔はみるみる蒼くなっていく。 ―――お、落ち着け、大丈夫だ 目は見える。指は動く。息を吸って。 「げほ 魔族っ子、シィスがバカなことくらい分かっていることではないか」 まずはリーシャの腕をそっと掴み、引き離す。 一歩離れ、手を外し、呼吸の乱れから薄っすらと浮かんだ涙をさり気なく拭う。 「く、クロエさま、ひどい…」 眉をひそめるリーシャに、クロエは精一杯の、ただし相当引きつっている笑顔で答えた。 「さぁ、もう一度シィスと遊んでおいで」 「………クロエ様の……クロエ様の、人でなし~!」 ガーン。その文字を効果音付きで背負ったのは、今度はクロエであった。 ◇◆◇◆◇◆ 「奇襲だ!」 城内に警報が鳴り響く。悲鳴やざわめきが夜の国を振るわせた。 兵が民の安全を確保するため国中を走り回り、兵隊長は策士と共に残りの兵を集め並ばせる。 「飛行モンスター、その数数千!」 斥候によるその報告は、少なからず兵を動揺させ勇気を削った。驚愕に目を見張り、息を呑む。 そのとき、 「ひるむな」 一言だけ発せられた。重い一言だった。 そして、腰に双翼の装飾が施された剣を挿したクロエは、凛として皆の前に立った。 月の光が細い銀の髪に反射し、幻想的な雰囲気が醸し出される。 あたかも古き時代の精霊が舞い降りてきたようだった。その光景に誰もが目を奪われる。 この方を守りたい。 この方のために、この国を守りたい。 「来たぞ! 撃てー!」 弓兵がモンスターを狙い、一斉に矢を射った。 だが最前列の数匹のモンスターの放った炎よって、全く届かない。そればかりか、その炎は兵をも飲み込もうとしていた。 クロエの命により術兵が同時に防御の魔法をつむぐが、それすらも帳消ししてしまう。 いつもよりも強い敵。 一筋の汗が流れた。 誰しもに絶望が見え隠れする。 クロエは剣の柄を握り締め、希望を紡ぐために自ら躍り出た。 周囲の光がゆらゆらとクロエを中心に増幅する。 「駄目だよ、クロエ」 そこへ白いものがふらりと現れた。モンスターの起こす風に煽られ、数本に分かれた布が翻っている。 さながら、人の世に気まぐれに降り立つ白い鳥か… 「シルヴィス様!? 危険です! お下がりください!!」 唐突にやってきたシルヴィスは、数多きモンスターに臆することなく、その繊細な手をすっと上げ、形の良い口を暗い微笑で染めた。 「大丈夫だよ 僕が何のために魔族を連れていると思っているんだい?」 彼の傍らには、小さな魔族が控えていた。 ◇◆◇◆◇◆ それはあまりに強かった。そして、巨大だった。 今までと違い、リーシャの力だけでは追いつかない。 先祖の、星の力を解放しなくては。 何も守れない。 だからシルヴィスは、その瞳を紫に染めた。 終章 「シィスさま!」 横でリーシャが泣きじゃくっている。 いつも泣かせてばかりいる。 ごめんね、リーシャ。 でも、最後のわがままを聞いて欲しいんだ。 このまま、その命枯れるまで、わが国に…… シルヴィスに擦り寄るリーシャの手は真っ赤だった。 ふとシルヴィスは、うつろな目で彼を探した。 最愛の、最尊の、自分と同じ銀色の……僕の行き着く先。 それはリーシャとは反対の、シルヴィスのすぐ横にいた。 それに気づき、シルヴィスはほっとした。 「シィス!」 珍しくこちらも泣きそうな顔をしていた。 そして、彼もそこかしこを赤に彩っていた。 「今すぐ、治して…」 シルヴィスは反射的に首を横に振った…つもりだった。 実際にはほとんど動かなかっただろう。正直、息をするのもつらい。思考も意思とは裏腹に停止してしまいそうだ。 何故、こんなことになってしまったのだろう。 この国と、この人と、この人の意思を守りたかっただけなのに。 人はこんなにも無知で無力で…貪欲だ。 そして、彼は正義感溢れたバカ正直なお人よしだ。 ただそれだけのこと。 けれど…… ただそれだけのことが、なんて愛おしいのだろう。 最後に言わなければ。素直な自分の思いを。 「ク…ロエ」 それは声にならない声だった。 けれど、クロエには伝わっている。そう確信していた。クロエの、手を握る力が強まる。 ―――あなたがいるから僕は安心して空に昇ることができる… クロエの目が見開いた。少し困惑している。 ごめん、兄上。僕は、もう人間とは違う次元のものだから。 いつからだろう。 昔は確かに、兄上と同じものだったのに。 僕の星の力は…強すぎてしまった。人間では保てないほどに。 涙がこぼれた。 いつぶりだろう。 僕はもう、人間じゃないのに。 金色の月が蒼碧の海に映る。 そして。 ―――そして、僕はすべてを背負って沈む また、あなたに逢いたいから…… END |